曽我祐次さん(元社会党副書記長)と語る
 

~ どう変える?社民党 ~




曽我祐次(そが・ゆうじ)さん
元社会党副書記長。1925年東京生まれ。1947年日本社会党に入党。60年安保闘争後、社会党東京都本部書記長、委員長を務め、美濃部亮吉氏の都知事当選に尽力。76年社会党企画担当中執、副書記長を歴任後、86年に辞任。最近、雑誌「進歩と改革」(04年2月号)に「社民党新生への試論」を発表した。

 

 【対 談】変化に対応できる党に
 
私は、社民主義を打ち出す社民党の役割は大きいはずだと考えますが、同時に党に対する負のイメージが強いことも実感しています。特に北朝鮮が日本人の拉致を認めて以降顕著になり、その前には秘書給与問題、もっと遡れば村山富市さんが自衛隊合憲、安保容認という方針を突如とったあたりから、裏切りの政党という批判をされるようになったのではないでしょうか。社民党は、今からでも政党として再出発する気持ちで改革に取り組む必要があると確信しており、その方策を一緒に考えたいと曽我さんに対談をお願いしました。
  冷戦崩壊後の変化を総括 することから
 
阿部 曽我さんが社会党員になられたのはいつですか。

曽我 1947年です。 45年の結党から2年後でした。 社会党は55年体制を経て約50年間、 自民党と対抗する3分の1勢力の野党として、 憲法を守り平和を守り勤労者の生活と権利を守る党として存在してきました。 社会党が右派から左派までを包含するのは戦前からの無産政党の歴史的系譜を背負っているからで、 それこそ社会民主主義的なことなのです。
 ただ、 冷戦崩壊後、 90年代に社会党が四つ (無党派、 新社会党、 民主党、 社民党) に分裂する過程で、 社会党の本筋を受け継いだのが現在の社民党なのですが、 社会党時代を含め未だにその過程や情勢認識の変化について国民に充分説明責任を果たしていません。

阿部 社会党が元々社民主義的な政党、 というのは、 労働者、 無産者、 農民、 特に小作農といった人たちの立場を拠り所としつつ、 共産党よりすそ野が広い、 という意味ですか。

曽我 そうですね。 当初、 共産党は、 暴力革命を目標としていて、 朝鮮戦争の頃など、 一時、 火炎ビン闘争に象徴される時期に入ったこともありますが、 社会党は一貫して議会主義でした。

 

  ヨーロッパ社民主義の 勃興に乗り遅れた
 
阿部 95年、 社民党から参議院に立候補する前、 当時の党の関係者から党員になるよういわれて 「憲法を守り広める」 という趣旨の規約を見たとき、 縛りが少なくて安心する一方、 社民主義イコール護憲なのかという疑問を持ちました。 本来は、 自分たちがイメージする社民主義をきっちり説明して、 そのなかに憲法を据え直していくことが必要なのではないかと思っています。 社民主義と憲法の関係についてご意見をお聞かせください。

曽我 70年を前後して、 ソ連を中心とする社会主義陣営のほころびが見えてきました。 そこで、 私は76年から85年までの約10年をかけ、 幅広い学者の参加も得て社会民主主義を基本とする 「新宣言」 を作りました。 当時のメディアからも、 これで社会党は社民主義の党に戻ったと評価されました。 ところがその年、 中曽根内閣の衆参ダブル選挙で社会党が敗退し、 私は党本部を辞めることになります。 新宣言は棚上げにされたまま、 それ以後、 土井時代に入り、 政治スタイル、 運動論、 政策論などが、 古い体質に戻ってしまいました。 それを象徴するのが 「護憲一点ばり」 で現実に即した戦略的な提起ができなかったことです。

阿部 ヨーロッパで社民主義的な政党が勃興したのと連動して、 86年以降、 日本でも将来を見据えた政策を作る作業があれば、 名実ともに対抗勢力になれたでしょう。 社民党は経済が弱いとよくいわれます。 社民主義をすすめるには、 人一倍経済を理解し、 市場経済のひずみを修復したり、 市場経済の中での論理に合わないものを正していくことが必要です。 護憲にしても、 位置づけ方、 護憲を支えるインフラを提案しなければなりません。 政党は、 主観的な思い込みではなく、 客観的な世の中の流れを見ながら、 10年、 20年後のあり方を考えなければなりません。

 

  「飽くなきリアリズム」 が 足りない社民党
 
曽我 北朝鮮問題をめぐっては、 この危機を乗り越えれば、 北東アジアの展望は広がります。 特に経済的な面です。 日本のなかでも高度成長で発展したのは太平洋側でした。 北東アジアの平和と安定は、 日本海側が経済的に前進していく大きな要素になります。 その点を付け加えて説明すれば、 国民の受けとめ方も変わってくるでしょう。 かつての社会党には環日本海経済に関する研究プロジェクトもあり、 研究活動をしていました。

阿部 ぜひ、 また党本部と議員活動をつなぐシンクタンクような機関を作りたいですね。

曽我 社会党時代から考えても、 党の看板は、 「平和と福祉」 でした。 55年体制の下で、 日本が疑似社会主義あるいは疑似社民主義といわれたのは、 社会党が具体的にセーフティネットを提起して、 自民党を引っぱったからです。
 ただし、 それは結果的に官僚の上からの統治、 自民党のお手盛り政治に利用された面があり、 本来の社民主義の社会福祉政策とは違うものになってしまいました。 そこを清算して、 社民党の福祉政策を出し直さなければなりません。
 池田首相の所得倍増政策に呼応して実際に所得を倍増させたのは、 総評をはじめとする労働者の力です。 歴史的には、 一定の段階まで、 進歩的で改革的な方針でしたが、 70年代半ばからの変化に対応できませんでした。 考え方は間違っていないけれど、 それをリアルに具体的政策に展開する力が弱いんですね。 フランスの元大統領・ミッテランが 「社民主義とは何か」 という問いに、 「ヨーロッパ社民は、 理念と哲学の政治を目指すと共にリアルポリティックスの覇者でなければならない」 と答えていますが、 日本の社民党には、 「飽くなきリアリズム」 が足りません。
 専門家や学者を党の周辺に集められないという知的後進性もあります。 そこを解決すれば、 社民党の前途も見えてくるのではないでしょうか。 シンクタンクを、 という阿部さんの提起は誠に賛成です。 しっかりやってください。

阿部 どうもありがとうございました。

 

(「阿部とも子News ともことかえる通信No.16」(2004年6月号)に掲載)